2016年03月23日

20)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】20)「東京都地方労働委員会創設50年記念誌」。この「50年記念誌」には「石川島播磨」や「国民金融公庫」を引き合いに出しながら、何故明乳だけが除者にされたのか



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

「東京都地方労働委員会創設50年記念誌」が刊行

 敗戦の翌年1946年に発足した労働委員会制度は96年3月で50周年を迎えた。これを機に都労委でも記念行事が組まれ、その一つとして96年11月29日付で「東京都地方労働委員会創設50年記念誌」が刊行された。厚表紙箱入りで630ページの豪華本である。私も1ページを与えられ随筆「古山会長と私」を書いている。毒にも薬にもならない内容だが、それでも一部古山氏を批判した部分を削除された。

 この記念誌のメインの一つが「昭和から平成への10年の回顧とこれからの課題」と題する記念座談会(実施日は95年11月30日)で、30ページに及ぶ分量である。出席者は司会の高田章公益委員と公労使3人ずつの計10人。労側は和田正、河井正治、天井修の各委員で、和田、天井が旧同盟、河井が旧新産別の出身。

 この労側出席者の人選は滅茶苦茶だ。3人とも事件担当は数えるばかりで、月2回の総会も欠席がち。とてもじゃないが「10年の回顧」や「これからの課題」など語れるわけがない。すべて連合選出の成嶋久雄労側幹事の采配である。在籍18年、事件担当最多の戸塚は何としても外したかったのだ。

 ここで都労委会長人事に関わる内部の動きについて触れておきたい。座談会実施時点の都労委会長は沖野威委員(桜美林大学教授)。沖野氏は古山前会長の肝いりで93年11月、公益委員になる。古山氏は94年5月10日の総会を「風邪のため」欠席。その後も欠席の続く古山氏の会長職はそのままで、瀬元美知男会長代理(成蹊大学名誉教授)が総会はじめ都労委運営を取り仕切るようになった。これは古山さんの後は瀬元会長かなと思っていたら7月に沖野氏も会長代理になった。古山氏の指図だったらしい。

 古山会長は病状悪化のため95年1月24日、会長職を辞任した。その半月前1月10日に開かれた都労委総会で、瀬元会長代理は突然辞意を表明した。会長代理だけでなく22年在籍した都労委公益委員も辞めてしまった。瀬元氏辞任表明の次の総会(1月24日)で沖野会長が就任する。

 なるほど瀬元さんは会長争いに敗れたのだなと納得した。瀬元さんもいろいろ問題があるが、ベテランだし、不当労働行為とはどういうものかについての理解はあった。沖野新会長はその点ド素人である。私はこの時期例の「平準化」問題で瀬元さんとも沖野さんとも難しい話し合いをしたが、沖野さんは暖簾に腕押しで能天気だった。瀬元さんとはその年の10月30日に江古田斎場で行われた古山前会長のお通夜で会ったが、都労委については金輪際触れたくない様子だった。2006年12月29日没。享年82歳。

 都労委50年記念座談会に戻る。高田会長代理の司会で始まった座談会は、まず出席者全員の「委員になったいきさつ」を聞く。労働者委員3人はそれぞれ組合事情で委員に。団結権擁護などの労働委員会の役割とは無関係。使用者委員の兵頭さんだけが会社労担の経験から委員になった意義を述べている。

 次に高田さんはこの10年の都労委の動向として三つ挙げる。一つは賃上げなどの斡旋事件の減少、二つは国鉄民営化に関わるJR事件の大量申立。「さらに3番目といたしまして『潮流間差別』といわれる組合少数派からの不当労働行為救済申立が顕在化してきたことが挙げられるかと思います」。

 高田さんの頭の中には『潮流間差別』事件、つまり明治乳業事件が「この10年の動向」として大きな位置を占めており、この座談会でも議論してもらいたい気持ちがあったと思われる。ところが連合出身の和田、河井、天井の労側3人では議論の出様がない。わずかに兵頭委員が次のように触れているだけだ。

 「潮流間対立の場合の少数の組合、または小数の団体が申し立てた事件というのは、その労働委員会にかかっているということに意義がある。自分たちの存在価値は、その事件が労働委員会にかかっている間世間からも注目されるし、多数組合なり多数勢力に対する対抗的な立場にありうるということで、労働委員会のかけるということが自分たちの労働運動なんだと、こういうことを言いたかったわけです」

 この兵頭発言は私にも真理の一面を衝いているように思える。潮流間差別事件を申し立ててたたかうことによって職場や組合の民主的変革をはかるというのは当然だ。しかしだからといってその労働委員会での審査の結果がどうでもいいということにはならない。会社の不当労働行為を断罪し、申立人らの労働運動を正当だと認めさせなければならない。そのためにはどうしても救済命令が必要なのだ。

 そこのところが高田さんに伝わったかどうか。明乳争議団は労働委員会に申し立てて10年たたかった。そのこと自体に意義があるとしたら結論にはこだわらないのではないか。もしそんな風に考えたとしたら大きな間違いだ。その間違いを指摘する人が誰もいないとしたら・・・。いずれにしてもこれは結果が出た後の議論で、座談会が行われた95年11月30日時点では私としては知る由もない事柄だった。

 この「50年記念誌」には後でも触れるが、「潮流間差別」事件について「石川島播磨」や「国民金融公庫」を引き合いに出しながら真っ当な評価、分析を加えている。(それにしても何故明乳だけが除者にされたのか)


2016年03月19日

19)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】19)9期18年の労働委員生活を終える 連合の意を受けた成嶋委員が「とにかく戸塚にだけは仕事を回すな」と仕掛ける。「笠原ファイル」で証明された事実





検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)



労働者委員退任

 この間、労働者委員の「平準化」問題はかなり泥沼化しながら紛争状態が続いていた。連合の意を受けた幹事の成嶋委員が「とにかく戸塚にだけは仕事を回すな」といろんな手を考えて攻撃をかけてきた。私に事件担当させないだけでなく、それまで平等だった内外の諸会議への出席を私が希望するのに行かせなかった。

 争議団・争議組合側も黙ってはいない。JR事件や全印総連の事件で押し付けられた労働者委員を忌避する申立があり、審問廷が大混乱した。調査や審問が大幅に遅れる事件が続出した。私も総会をはじめできうる限りの機会に抗議の発言をした。その結果、新任の沖野威会長が仲介の役を私に申し出たりした。

 そんな混乱の中でも、大企業の労使協調組合内少数集団の潮流間事件だけは守り抜いた。新件の日立、凸版をはじめ、雪乳、日本ペイント、山武ハネウェル、石播、国金、大日本印刷、朝日火災、日立中研、営団地下鉄、エールフランス航空、そして明治乳業はすべて戸塚が担当委員として誰にも渡さなかった。

 95月11月1日付で第32期委員改選が行われる。7月21日が委員推薦の締切日だった。6月27日、東京地評事務局長に呼ばれた。「戸塚さんで押し切れる自信がないので委員を交代してほしい」という話だ。私もうすうすそんな気がしていた。後任に同じ新聞労連東京地連出身の井川常幹を推薦するということを確認して委員交代を了承した。これで9期18年の労働委員生活を終えることが決まった。

 そうなると問題は私が担当していてもうすぐ命令の出る「朝日火災」「日立中研」「明治乳業」はじめ、潮流間事件のすべてをを井川新委員にすんなり引き継がせことができるかどうかということ。戸塚関連事件の争議団・争議組合は「担当労働者委員が任期満了などの事情で変更の場合にはあらかじめ申立人の意向を確認し、これに反する決定を行わないこと」を要求して都労委事務局への要請行動を強めた。

 その結果、退任時点で残っていた戸塚担当の99件は1件も漏らさず井川新委員に引き継がれることになった。成嶋幹事もこのことに関してはさしたる抵抗をしなかったようだ。仲介役を買って出た沖野会長の意向も働いたのではないか。ともあれ、明治乳業事件の命令にとってはほっと一息というところだ。

 井川委員は優秀な組合活動家だが、命令作業の細かい情報収集やウラ・オモテからの事務局への働きかけという点では何といっても経験が物を言う。この時点での委員交代に私は若干の危惧を正直感じてもいた。

 労使委員は命令合議に出席できない。そのかわり意見書を提出することになっている。95年10月末日で都労委労働者委員は退任した私だったが、明治乳業事件の意見書は私が書くことで、後任の井川委員と事務局の了解を得た。私は命令作業にも注文をつけたかったので早めに提出することにした。

 96年1月31日付で沖野会長宛てに提出した私の意見書(全文)は次の通りである。

 
1、本件事件の背景と明治乳業不当労働行為事件
 @日本の高度成長を支えた貴重な労働力
 今回命令が出されようとしている表記3件は明治乳業市川工場に働く32人の労働者の集団的申立事件である。申立人のうち最年長者である沢口昇は1931年(昭和6年)生まれ、52年(同27年)本採用と1人だけ年齢的に離れているが、他は次表の通りほぼ同年代である。
   生年         人数     入社年          人数
 1939年(昭和14年) 1人    1962年(昭和37年)  5人 
 1941年(昭和16年) 1人    1963年(昭和38年) 23人  
 1942年(昭和17年) 3人    1964年(昭和39年)  3人
 1943年(昭和18年)15人
 1944年(昭和19年) 8人    
 1945年(昭和20年) 3人
 申立人らはいわゆる「団塊の世代」より一回り上で、太平洋戦争末期に生まれ、戦後の民主主義教育を受け、60年安保闘争後の労働運動高揚期に主として農村から都会に出てブルーカラー労働者になった者たちである。64年の東京オリンピックを頂点とした日本の高度経済成長を生産点で支えた貴重な労働力であった。

 A60年安保闘争後の労働運動の高揚と大企業の職務給導入
 被申立人明治乳業株式会社も日本経済の高度成長に合わせるように設備を増強し生産能力を高めていった。61年(昭和36年)7月に操業を開始した市川工場は「躍進する明治乳業」の象徴的存在であった。その市川工場に入社した申立人らは当初から「躍進明治」の生産を支え、勤勉と忍耐で過酷な労働に従事した。

 このような企業の「躍進」、それを生産点で支えた恵まれない労働者の存在は明治乳業に限らず日本の主要産業のどこでも見られた。やがて、はじめは過酷な労働に耐えていた労働者、中でも青年たちが労働組合の主導権を握って立ちあがることになる。東京オリンピックを挟んだ60年代中期は日本の労働運動にとって生き生きとした活気に満ちた高揚期であった。ストライキが頻発し、春闘は大幅賃上げをスローガンに激しくたたかわれた。

 日本の経営者はこの労働運動の高揚に早くから危機感をもって対策を練っていた。62年春闘を前に日経連は、「貿易自由化をはじめとして、諸情勢の急速な変転は、職務給化を緊急な課題としつつある」と提起。その年の4月から八幡、富士、日本鋼管の鉄鋼3社に職務給が導入された。その後松下電器の「仕事別賃金」など電機産業が職務・職能給を採用し、やがて全産業に広がっていく。被申立人明治乳業株式会社が69年(昭和44年)4月に導入した「新職分制度」もまさにその一環であった。

 職務・職能給、職分制度が大企業に浸透した頃から、組合の分裂、産業別組織からの脱退 が目立つようになる。職務給は組合攻撃につながったのである。労働委員会に複数組合併存下の諸問題が不当労働行為事件として申し立てられるようになるのはこの時期からである。それは各労働統計にも表れており、また「都労委40年史」にも詳しく記述されている通りである。

 一方、職場で分裂状態になりながらも同一組合に止まり、多数派を目指して組合活動を続けている本件申立人らのような集団も存在した。これらの集団に対する差別事件の申立は複数組合併存下の事件よりほぼ10年遅れて80年(昭和55年)頃から顕在化するようになる。本委員会では「石川島播磨重工業」事件(90年命令)、「国民金融公庫事件」事件(95命令)が有名である。

 B完全かつ抜本的な命令を
 今回の命令対象は表記の3件であるが、明治乳業市川工場の32人はその後も昭和62年不第17号、同63年不第22号、平成元年不第20号、同2年不第8号、同3年不第9号、同4年不第6号、同第17号、同第35号。同5年不第11号、同6年不第23号、同第52号、同7年不第18号と毎年申し立てている。また明治乳業の全国に散らばる工場の労働者32人も平成6年不第55号、同7年不第19号を申し立ててこれに続いた。命令対象の3件は申立からすでに10年を経過している。さらにその後も申立が絶えないことは申立人らへの差別がずっと続いているなによりの証拠である。

 本件の完全かつ抜本的な救済命令を発することは、明乳市川工場における長期間にわたる労使間紛争を解消し、職場の正常化を実現するための契機となることは確実である。このことをまず最初に指摘した上で意見陳述に入ることにしたい。

U、申立人らの「正当な組合活動」
 1、明乳労組市川支部執行部に選出されていた当時の組合活動
  @沢口昇の組合活動歴
 まず申立人のうちの最年長者沢口昇の組合活動歴を見てみよう。
    (年度)
 60年度(昭和35年)  戸田橋支部書記長
 62年度(昭和37年)  市川支部書記長   
 64年度(昭和39年)  関東地区本部委員長
 66年度(昭和41年)  関東地区本部委員長 中央委員会副議長
 67年度(昭和42年)  関東地区本部委員長 中央委員会議長  
 68年度(昭和43年)  関東地区本部専従書記長

  A市川支部執行部における申立人らの役職
    (年度)     
 62年度(昭和37年) 沢口昇(支部長) 
 63年度(昭和38年) 伊藤満(書記長) 
 64年度(昭和39年) 伊藤満(副支部長)加賀谷武喜(執行委員)
 65年度(昭和40年) 加賀谷武喜(書記長)小関守(執行委員)
 66年度(昭和41年) 加賀谷武喜(書記長)伊藤満(執行委員)小関守(同) 松下秀孝(同) 菊池政次郎(同) 桜井隆夫(同)
 67年度(昭和42年) 小関守(書記長)加賀谷武喜(執行委員)桜井隆夫(同)菊池政次郎(同)

  B支部執行部役員以外の組合活動
 他の申立人らもこの時期、職場代議員、教宣部員、青婦部役員、あるいは職場活動家として支部役員を支えてともに活動した。68年度(昭和43年)からは組合役員に立候補しても落選するようになったが、職場代議員には75年度(昭和50年)頃まで就任していた。       

  C市川支部執行部の活発な活動と会社の対応
 申立人らが市川支部執行部の中軸として活動していた時期、支部は明乳労組の中で最も活発な支部であり、会社の「合理化」施策に頑強に抵抗するしぶとして注目されていた。支部執行部は職場代議員を中心として要求をまとめ上げ職場交渉で実現していった。また、スポーツ・文化サークルの育成にも取り組み血の通った団結と職場組織作りを目指した。

 この時期、明乳労組本部も職場からの組合活動の高揚を反映して、腰痛をはじめとする労災・職業病問題で市川支部執行部の方針に理解を示すようになり、63年(昭和38年)には組合結成以来初のストライキ権を確立した。会社はこのように組合が強化されていくのを苦々しく思い、組合取り込みを謀ることになる。それが65年(昭和40年)3月の労使生産合同委員会答申にはじまる大「合理化」計画であった。

 大「合理化」計画の内容は、大量人員削減と三交代制を柱とするものであったが、同時にこの「合理化」施策を会社と明乳労組が労使合同で遂行することによって、これに抵抗する申立人ら市川支部の組合活動家を全体から孤立させ封殺することもねらっていた。

 会社は続いて66年(昭和41年)4月20日には明乳労組との間で「労働意欲欠如者の排除」を謳った「41・1労使確認書」を取り交わして市川支部孤立化に追い打ちをかけた。この「労使生産合同委員会答申」(65年)、「41・4労使確認書」当時の市川支部書記長は申立人の加賀谷武喜であった。

  D疾風怒濤の人減らし攻撃
 人員削減と三交代制を柱とする「合理化」計画は65年3月29日の明乳労組中央委員会の採決で18対6の賛成多数で可決された。市川支部は戸田橋支部、大阪支部(3支部とも三交代制の対象職場)とともに強硬に反対したが少数で主張は通らなかった。

 会社はこれで組合の合意は取りつけられたとして、5月20日に人員整理(市川工場製造ラインの376人を269人に削減)、7月1日に三交代制を強行実施した。66年の「労使確認書」後の6月13日、「修正第一次目標人員」と称してさらに35人。68年3月16日には「第二次目標人員」を設定して洗壜職場10人、瓶詰職場5人などの第三次人員削減が行われる。まさに疾風怒濤の人減らし攻撃であった。人減らしによって生じた「余剰人員」は、退職勧奨、「青空部隊」配属、強制配転などの仕打ちに晒された。

  E会社施策と対決する諸活動
 これでは労働者が怒らないわけはない。市川支部執行部の中心にいた申立人らは当然支部の全力を投入して会社施策と対決し、職場労働者の利益擁護のためにたたかった。支部機関紙・職場新聞の発行、工場協議会での会社追及、「三交代粉砕のバスハイク」・職場集会・抗議集会・学習会等の開催、食品産業や地域の労働者への訴え、中央委員会等明乳労組各機関での発言など活発に活動した。

  F会社も認める「活発な組合活動」とそれに対する偏見と敵視
 申立人らの「活発な組合活動」は本件審問における会社側黒川孝雄証人によっても浮き彫りにされた。会社は黒川証言を最終陳述書において次のように要約している。

 「昭和38年頃から、『余分に働くな』『職制は敵だ』とする特異な勤労観を持つ一部の労組員で支部執行部が構成されるようになった」「この支部執行部の活動の特徴は、その特異な勤労観を支部員に押し付けるとともに、明治乳業労働組合綱領に基づいた労組中央本部から逸脱した活動を行ったことである。支部執行部は会社諸施策すべてに反対し、会社の指揮命令系統を麻痺させようとし、政治活動に偏向した。支部執行部は工場の安全衛生活動をボイコットするなど数々の不当な労組活動を行った」。

 この黒川証言は言葉を変えて申立人らの活発な組合活動とそれへの会社の敵意をあからさまに表現している。会社は申立人らが指導していた支部執行部の「勤労観」つまり思想信条を問題にし、敵視したのである。会社は「不当な労組活動」だというが、普通「不当な組合活動」としての指標とされる、暴力行為とか業務妨害行為とかは何一つ具体的に指摘できない。要するに会社は人減らし「合理化」にあくまで反対する申立人らの組合活動が憎かっただけなのである。

 2、市川支部執行部に選出されなくなった後の組合活動
  @組合役員・代議員への立候補
 申立人らは68年度(昭和43年)以降支部執行部が「明朋会」メンバーに独占された後も組合本支部役員、職場代議員に立候補し、またはその推薦人として名を連ねた。立候補等の情況については甲378号証拠の一覧表で示されている。なお、職場代議員は制度上は立候補制ではなく職場の互選による選出であるが、実態としては申立人らと「明朋会」がそれぞれに候補者を絞って投票で決していたのである。

A役員立候補に際しての政策宣伝活動

 申立人らは69年(昭和44年)の立候補に際し、「話し合い 励まし合い 要求を実現しよう」という標題の「支部選討議資料」を、70年には「七大基本政策」を作成して配布した。他に「ゆとりを持って働ける作業人員と職場をこうして作ろう」「上級職制の横暴な態度、もっと人間らしく、権利も大切にしよう」「職制機構を通じた組合介入にストップ、アカ攻撃、差別をはね返し組合を真に強化する道を」などのパンフレットも作成、配布した。また立候補者、推薦者連名の職場新聞「いぶき」も発行した。

B支部大会方針への修正案提出

 申立人らは69年、74年、84年の支部大会に、労使協調の運動方針に反対する立場から「職場の権利確立」「労働条件の抜本改善」「平和を守る戦い」などを柱とした修正案を提出した。これらは申立人のうち数人が連名しており、申立人ら集団の組合活動であることが明白である。

C春闘、人減らし「合理化」、労災事故などのたたかい

 春闘=69、70、71年春闘にあたって職場新聞「いぶき」を発行。72年春闘では冷蔵庫職場で職場新聞「すずらん」。職場ビラには、73年の「73年春闘、生活からの要求で」、81年の「早出残業までしてこの賃金、春闘でなんとかしなければ!」、89年の「春闘要求構想、平均6.5%程度では生活向上になりません。春闘や賃上げについてもう一度考えよう」などがある。また本部オルグの職場集会で執行部批判の立場から積極的に発言した。

 人減らし「合理化」=70年に11号にわたる「合理化、時短シリーズ」を発行。71年には職場新聞「すずらん」で人減らし反対を表明。その後も、東京工場閉鎖反対、サービス残業是正などを強調した。


(中途半端になるので本日はここで切り上げる。昨日、今日と近くで「さくら祭り」。あいにくの雨だ。焼きそばを売る屋台のテキヤさんもしょぼくれていた。子どもたちが小さい頃、公園にシートを敷いて花見をしたな。話は変わるが、父の33回忌、母の23回忌の塔婆を数日前にお墓に立ててきた。子どもたちは昔花見をしたおれの年齢になり、おれは親父の死んだ年を越えた。やけにしんみりさせる冷たい雨が降り続いている)

 労災事故=申立人らは70年の「岩崎労災認定闘争」をはじめ腰痛をなくし、職業病と認めさせる活動に取り組んだ。72年の塩素ガス漏れ事故、プラップターのスリップ事故、76年の鈴木文雄のデバレタイザー死亡事故、77年の過酸化水素被害、87年の京都工場見習い労働者転落死亡事故、89年の大阪工場下請け作業員デバレタイザー巻き込まれ死亡事故などについて職場新聞や選挙ビラ、「明乳差別をなくす会」名義ビラ等で取り上げたり、会社への抗議行動を行ったりした。

D苦情処理委員会への提起
 申立人らは査定が公平に行われていないとして、71年から74にかけて会社苦情処理委員会に苦情を申し入れていたが一切救済されなかった。
E本件申立と不当査定問い質し運動
 毎年累積する賃金昇格差別からの救済を求めて85年に都労委に本件申立を行った。また不当査定に対する上司への問い質しを行ったがまともな返答はない。

 3、申立人らの集団性
 会社市川工場(組合市川支部)内に、62年頃から68年頃まで明乳労組市川支部執行部を中心ニ構成していた申立人らがいたことは事実である。申立人全員が支部執行部のメンバーでなかったことも事実だが、メンバー以外も執行部の方針を支持して同じ組合路線を歩んだ人たちである。

 これら62年頃から68年頃の支部執行部の中心的メンバーとそれに同調する者たちで後に「階級的民主的活動家集団」を形成した。確かにこの「集団」はそのような名称で公然化したわけではなく内部的な結束ではあったが、前項@からDまでのような諸活動によって「集団」として会社も認識していたであろうことは容易に推認しうるところである。

 この点で本委員会が昨年(95年)5月19日に交付した「国民金融公庫」事件命令において、非公然の「全国活動者会議」であっても、そこで討議され決定した方針の下に職業病をなくすたたかいや配転反対闘争を行っていたことは公庫も認識していた「正当な組合活動である」と認定していることを付け加えておきたい。

V、被申立人会社の不当労働行為意思
 1、「明朋会」の誕生と会社の意図
 会社の係長、主任、班長が中心になって65年(昭和40年)10月に「明朋会」がつくられ、翌66年3月19日に第1回総会が開かれ、同年6月にビラ「明朋」を作成配布して公然活動を始めたことは、会社も認める歴史的事実である。この時の市川支部書記長は申立人加賀谷であり、執行委員に申立人の伊藤、小関、松下、菊池、桜井がいて、会社のいう「特異な勤労観を支部員に押し付けるとともに」「会社諸施策すべてに反対し、会社の指揮命令系統を麻痺させようとし、政治活動に偏向し」「工場の安全衛生活動をボイコットするなど数々の不当な労組活動を行った」(会社「最終陳述書」)とされる時期である。

 「明朋会」は会社の「合理化」推進を謳うと同時に、支部執行部と職場の申立人らに対して猛烈なアカ攻撃と口汚い罵声を浴びせた。ビラ「明朋」によれば「(忍者)赤ガエル」「赤い火の粉」「赤ムシ」「赤水虫」「赤大根」「赤い細菌」「赤いスイカ」「赤いだし汁」「赤ムシコケムシ」「赤いタニシ」「赤い金魚のフン」「日共・民青」・・・と言いたい放題である。

 また「生産阻害を唯一の生き甲斐としていたインチキ革命家共」というような言い回しで、申立人らを「生産阻害者」「企業破壊者」と決めつけた表現も目立つ。これは「労働意欲欠如者の排除」を謳った「41・4労使確認書」の精神とも重なり合う。

 確かに「明朋会」のメンバーは職制とはいえ組合員であるから、会社の預かり知らぬ「労労対立」といえなくはない。しかし、大量に撒かれた「明朋会」の常識外れのビラは当然会社の手に入っていたはずである。会社は、「明朋会」について「市川支部の常軌を逸した行動に対する批判の中から生まれた集団」と褒めたたえているが、当時の市川支部執行部の発行するニュース類と「明朋会」ビラを比較する時どちらが「常軌を逸脱」しているか一目瞭全ではないか。これだけの「常軌を逸した」ビラが連日撒かれていたにもかかわらず会社が「明朋会」ビラに注意を与えた事実は存在しない。むしろこれを煽り育成して会社施策の遂行にとって都合の悪い支部執行部の転覆を願っていたと見るのが妥当な見方であろう。

 2、「笠原ファイル」で証明された事実
 会社が職制連絡会を通じて組合選挙などに直接介入していた事実が暴露されたのが甲65号証の「笠原ファイル」である。 
 会社はこの「笠原ファイル」について、@ファイルは当時製造課主任だった笠原利治のものであったこと、A職制連絡会の記録であること、を認めた上でその証拠価値を免れるために次のような言い訳をしている。「申立人らの想像力をかき立てる穏当を欠く措辞が散見されるほか、メモ類が雑然と編纂され、しかも時系列に整理されていないので、内容が誤解され易いものになっている」(会社「最終陳述書」)。

 申立人らが支部執行部選挙で落選し、「明朋会」会員が執行部を独占したのは68年度(昭和43年)のこと。「笠原ファイル」その直後の70年から72年にかけての職制連絡会(係長・主任で構成)の記録である。この時期、一応「明朋会」による支部執行部の独占は果たしたが、まだ申立人らの勢力は根強く、いつ逆転されるかも分からない。そんな中で緻密な対策が練られ、そりに会社も深く関与していた逃れられぬ証拠である。

 職制連絡会は「明朋会」から班長以下を切り捨てだ上部職制による構成である。会議場所は少なくとも1度は会社応接室が使われていたことが推認され、会社保管の資料を使用し、会社業務のみに関する議題も取り扱っていた。職制連絡会では支部役員選挙と代議員選出に関してどうしたら申立人らの進出を妨げられるかが話し合われた。申立人らを赤組、職制派を白組と名付け、赤組のチェック、排除、孤立化についての手口が細かく検討され、また職場組合員を「◎○△×」に分類して赤組の票崩し、白組の拡大を図った。なお申立人は全員「×」印がついている。このような事実が「笠原ファイル」によって明らかになった。

 会社はこの「笠原ファイル」について大島証人の証言の中で、職制連絡会の存在は認めたものの、@目的は職場の悪習温存をなくすため、A「赤組排除」などは笠原個人の考え、B「明朋会」とは無縁、C組合選挙に介入したのでなく感想を述べ合っただけ、とか言い繕っている。しかし、それならこの証拠について一番詳しいはずの笠原本人を証人に申請すればいいのだがそれはしない。この一事を見ても「笠原ファイル」の真実性、会社関与の真相は明白であるといわざるをえない。
 
3、支配介入と不利益攻撃
 会社は@明朋会、A職制連絡会以外にも多様な手口で明乳労組市川支部の遠泳に介入し、申立人らえの不利益攻撃を行った。以下にその主な事例を順不同で列挙する。なお賃金昇格差別及び新職分制度(移行格付け試験)については別項目で述べる。

 @観察記録
 申立人らに狙いを定めて陰湿に「観察」しそれを悪意を込めて記録した。申立人は観察記録が人事考課の材料になっていることを知らなかった。本審問廷に申立人の勤務態度不良を示す証拠として大量に提出されたが、それらは、事実のデッチ上げ、誰でも起こすミスを針小棒大に取り上げる、著しい曲解に満ちたものなどであった。

 A就業規則細則
 会社は61年10月1日就業規則細則を導入し、それまでの労使慣行の破棄、出退勤・休憩時間等の厳格管理を一方的に強行実施した。これは支部が労使交渉を通じて獲得した諸権利をないがしろにするもので、職場組合員の支部への信頼と支持を損なう効果を持った。

 B時間管理の徹底
 着替え時間の取り上げ、昼休みの15分前機械停止の慣行破棄などを強行していたずらに職場を紛糾させた。申立人らが従来の慣行を守ろうとすると会社指示違反として「指導書むをとられた。
 C施設管理権のゴリ押し
 職場会に控室を使わせない、会社内で3人集まれば「無届集会」として解散させる、工場隅での歌声活動の禁止、など65年頃から締め付けが強まる

 D退職強要、分断・隔離
 65年からの「合理化」に際し「余剰人員むが生じたとして「青空部隊」と呼ばれる仕事差別が行われ、申立人伊藤、沢口、大井、大森、米元、荒木らが配置された。仕事は「ペンキはがし、ペンキ塗り、ゴミ拾い、草むしり、破壜の検査、アイスティックバーの整理・結束、粉末砂糖の袋詰め、人員不足職場への応援、通し作業員としての応援、殺菌機のガスケットの張り替え」(伊藤陳述書)など。申立人らは一般従業員から分離され、毎日寒さに震えながら屋外の高い建物のペンキはがし等をやらされたのである。

 E「誓約書」提出強要
 会社は68年春、勤続5年以上の従業員とその身元保証人に「社内諸規則の順守、違背して会社に損害を与えた場合の弁償」を内容とした「誓約書」の提出を迫った。これに対して申立人らは「誓約書は会社に忠誠と屈服を強いるものであり、今後の合理化施策に無条件で従うことを約束させようというに等しい」として反対。結局申立人らを含む80人が提出を拒否した。会社は拒否した全員から「指導書」をとった。「指導書」をとられると人事考課がD以下になる可能性が濃い。

 W、外形的格差の存在と移行格付け試験
  1、外形的格差
 @申立救済内容
 申立人らは会社従業員のうち申立人らと同性、同学歴、同勤続の中位の職分・号級および賃金(月例賃金・一時金)を求めている。バックペイは申立日から5年さかのぼった80年度(昭和55年)からの累積分の請求である。なおバックペイには6分の利子。他に1人300万円の慰謝料も請求に含まれる。

 A外形的格差
 会社の職分制度は下級から技能職、基幹職2級、基幹職1級、基幹監督職と昇格する仕組みになっている。この制度の基本は69年4月に導入された新職分制度によっている。
 申立人らの85年度現在の職分・号級は次の通りである(申立人古小高は休職中)。

 基幹監督職=沢口
 基幹職1級=伊藤、大森、大井、桜井(隆)、松下、山崎、吉村、三田地、岩本、高橋、額賀
 基幹職2級=菊池、佐藤、小関、沢山、平木、福井、村山、米元、加藤、斉藤
 技能職=加賀谷、荒木、久保、二瓶、橋本、佐々木、中島

 このうち63年10月以降入社の加藤、斉藤、佐々木、中島、岩本、高橋、額賀以外はすべて中位者が基幹監督職に達している。従ってこれら7人とすでに基幹監督職の沢口を除く申立人の基幹監督職への昇級(技能職在級で中位が基幹職2級である佐々木、中島は基幹職2級への昇格)を求めている。

  2、新職分制度と移行格付試験
 前項で見たように外形的格差の存在は明らかであり、それは申立人らが基幹監督職になっていないことに主たる原因がある。ちなみに94年現在では、85年当時技能職だった申立人全員が基幹職2級までは昇格したが、相変わらず基幹監督職はゼロである(唯一の基幹監督職だった沢口は91年に定年退職している)。

 会社は「新職分制度によって昇格については『コース別管理』を採用し、コース別に最終職分を定めている。申立人らは沢口を除いて『事業所採用者コース』であり、このコースの最終職分は基幹職1級である。それにもかかわらずその上位の基幹監督職を求めるのは制度上不可能を強いるものだ」として申立の却下を主張している。以下この問題を解明したい、
 
 @新職分制度とコース別管理
 会社は、69年4月1日から旧職分制度に替わって新職分制度を実施した。これにより職分区分は旧制度の5職分から12職分に増えた。「管理企画職1級」(組合員範囲)以下の9職分は次の通り。
 「技能職」―「基幹職2級」―「基幹職1級」―「基幹監督職」―「管理補佐3級」―「管理補佐2級」―「管理補佐1級」―「管理企画職2級」―「管理企画職1級」
 
 さらに会社はこれらの職分昇格をコース別に管理するとして次の4コースをつくった。
   コース                      最終職分
  事業所採用者コース             基幹職1級
  第1種詮衡試験合格者コース        基幹監督職
  第2種詮衡試験合格・本社採用者コース  管理補佐職1級
  第3種詮衡試験合格者コース        管理企画職1級

 沢口を除く申立人らは事業所採用者コースに編入された。なお沢口は旧職分制度で「指導職」だったため移行措置として基幹監督職に格付けされた。    

 A移行格付試験の実施
 新職分制度の導入にあたって会社は旧制度の「一般職」のうち高卒2.5年以上、中卒5.5年以上勤続者を対象に移行格付試験を実施した。これは制度上の第1種詮衡試験に相当するもので合格すれば第1種詮衡試験合格者コースに組み入れられた。

 移行格付試験の受験状況と合格者は次の通り。
       受験資格者   受験者  受験率    合格者   合格率
 全  社  3,301  2,629  79.6%   1,237   47.1%
 市川工場  267   138    51.7%    129   93.5%
 なお試験結果は公表されず、何点とれば合格するのかの基準も示されなかった。

 B移行格付試験を受験できなかった理由
 本件審問における会社側沢井証人によれば、移行格付試験への職場組合員の理解を得るために当時の市川支部は、労組中央執行部の特別オルグ、受験しないことによる不利益の教宣、受験資格のある全員へ受験を奨励、などの努力をしたという。それなのに市川工場の受験率は全社に比較して極端に低く、ちなみに合格率は異常に高い。

 市川工場に不受験者が多かったのは、67年まで支部執行部を担っていた申立人らの新職分制度導入反対の方針が職場に浸透していたためと見るのが妥当であろう。申立人らは「仲間同士がいがみ合う新職分制度反対」「家に帰ってまで試験勉強しなければならぬ移行格付試験」などと新職分制度と移行格付試験に疑問を呈した。

 結局申立人らが中心になって約半数の組合員が試験を受けないという決断をしたのだが、これは次のような事情を考慮するときその決断の根拠には十分な合理性があったというべきであろう。

 (「受験できない事情」は次回に。――大腸内視鏡検査はポリープ1個摘出のみで無事終わる)

 D制度と運用
 どんな制度もそれを運用するのは人間である。会社は新職分制度は「従業員の保有する職務遂行能力に応じ、従業員を各職分に格付けし、能力に応じた配置、昇格、昇給を行い公正な人事管理の実現に資する」ものという。しかし、「職務遂行能力に応じ各職分に格付け」するのも、「配置、昇格、昇給を行う」のも人間であり、具体的には会社の社長、工場長らと管理職なのである。

 明乳市川工場の場合管理職は「職制連絡会」を開催して組合対策を練ったり、「明朋会」のメンバーとして申立人らを口汚く罵倒したりする。社長、工場長らも見ぬふりするか時によっては奨励する人たちなのである。「公正な人事管理」は期待するのが無理というものである。

 制度についても労働者にとって過酷なものであることが指摘されよう。「コース別管理」というのは各コース毎の処遇を厳しく管理するという制度である。この場合のコースは陸上競技などの平面コースとは異なり、立体的構造になっている。上級のコースに乗るためには、普通以上の人事考課、各種詮衡試験に合格、というハードルをクリアすることが条件である。人事考課も詮衡試験も運用するのは経営者・管理職であって、一度睨まれた労働者が思い通りのコースを歩める可能性は少ない。これが明治乳業株式会社が採用した新職分制度の本質であり特徴なのである。

 3、「受験拒否」のみを理由とした昇格差別は許されない
 会社は旧職分制時代の63年(昭和38年)、職場のリードマンたる従業員を「指導職」として格付けするため任用試験を実施した。新設最初の任用試験で申立人沢口は受験を希望して合格している。なお会社は沢口の任用試験の受験と69年の移行格付試験拒否は申立人らの主張として矛盾するではないかと指摘しているが、時期も、制度の性格も、労使関係の環境も異なるものを一緒くたにした議論で論外である。

 また会社は、申立人の中には基幹職1級(事業所採用者コースの最終到達職分)に相当早い時期に到達しているもののいること(「最終陳述書」15頁)、移行格付試験前の67、68年度の人事考課が標準の申立人が多数おり、これらは受験さえしていれば合格した可能性が高いこと(「最終陳述書」59頁)を自ら認めている。

 D制度と運用
  どんな制度もそれを運用するのは人間である。会社は新職分制度は「従業員の保有する職務遂行能力に応じ、従業員を各職分に格付けし、能力に応じた配置、昇格、昇給を行い公正な人事管理の実現に資する」ものという。しかし、「職務遂行能力に応じ各職分に格付け」するのも、「配置、昇格、昇給を行う」のも人間であり、具体的には会社の社長、工場長らと管理職なのである。

 明乳市川工場の場合管理職は「職制連絡会」を開催して組合対策を練ったり、「明朋会」のメンバーとして申立人らを口汚く罵倒したりする。社長、工場長らも見ぬふりするか時によっては奨励する人たちなのである。「公正な人事管理」は期待するのが無理というものである。

 制度についても労働者にとって過酷なものであることが指摘されよう。「コース別管理」というのは各コース毎の処遇を厳しく管理するという制度である。この場合のコースは陸上競技などの平面コースとは異なり、立体的構造になっている。上級のコースに乗るためには、普通以上の人事考課、各種詮衡試験に合格、というハードルをクリアすることが条件である。人事考課も詮衡試験も運用するのは経営者・管理職であって、一度睨まれた労働者が思い通りのコースを歩める可能性は少ない。これが明治乳業株式会社が採用した新職分制度の本質であり特徴なのである。

 3、「受験拒否」のみを理由とした昇格差別は許されない
  会社は旧職分制時代の63年(昭和38年)、職場のリードマンたる従業員を「指導職」として格付けするため任用試験を実施した。新設最初の任用試験で申立人沢口は受験を希望して合格している。なお会社は沢口の任用試験の受験と69年の移行格付試験拒否は申立人らの主張として矛盾するではないかと指摘しているが、時期も、制度の性格も、労使関係の環境も異なるものを一緒くたにした議論で論外である。

 また会社は、申立人の中には基幹職1級(事業所採用者コースの最終到達職分)に相当早い時期に到達しているもののいること(「最終陳述書」15頁)、移行格付試験前の67、68年度の人事考課が標準の申立人が多数おり、これらは受験さえしていれば合格した可能性が高いこと(「最終陳述書」59頁)を自ら認めている。

 この「沢口の任用試験合格」「合格可能な申立人の存在」という会社も認めている事実を加味してみれば、申立人らは能力が劣るために基幹監督職に昇格できないのではなく、ただ移行格付試験を受けなかったことだけが理由で基幹職に留め置かれていることがはっきりする。ところが、これまで見てきたように新職分制度導入時の労使関係は申立人らが素直に受験できるようなものではなかった。会社は「移行格付試験を受けなかった人でもその後第一種詮衡試験を受けて合格した者もいる」と言っている。しかし、申立人らにとっては第一種詮衡試験も移行格付試験と同じであって受けるような心境になれない。
 
 それは会社が言うような「自由な選択」などではなく、むしろ会社に強制された不受験行為と言える。それゆえ「受験拒否」のみを理由とした昇格差別とその後の見せしめ的放置状態は申立人らの組合活動を嫌悪し、申立人ら活動家集団の弱体化を策した、不当労働行為意思に基づく不利益扱いと断じざるをえないのである。

 X、会社の個別立証批判
  1、本件会社証人の特異性
 前項でみたように本件賃金・昇格差別の本源的理由が申立人らが、新職分制度導入時の移行格付試験およびその後の第一種詮衡試験を受けなかったことにある以上、個別立証の必要はない、というのが申立人側の考え方であった。これに対して会社側は「原則として全員の個別立証」を行うことに固執した。本委員会は前後5回の進行調査の末、時間を絞った証言を行うことにし、93年3月から94年8月にかけて14回の審問期日で、対象申立人9人に対する会社側証人延べ16人、申立人側反論証人2人、計延べ18人の証人尋問を行った。

 本件会社側個別立証は他に余り類を見ない特異な証人の立て方で行われた。他のこの種事件での被申立人側の個別立証(アラ探し立証)は、対象申立人の上司(第一次評定者)を立てるのが普通である。ところが本件では述べ16人の会社側証人のうち上司にあたるのは7人(対象申立人にダブりがあるので実数5人)で、他の9人(実数4人)は市川工場業務課ないし本社人事部の部員である。彼らが生まれた時には申立人らはすでに会社に入社していた。彼らが立証しようとする申立人らの人事考課期間は彼らがまだ物心もつかない幼少時のことである。伝聞証言というにしても限度がある。まったく無意味で不適当な証人と言わざるを得ない。
  <前回(45)としたのは間違いで(46)でした。従って今回は(47)になります>

 2、針小棒大のアラ探しに終始
 次に立証方法であるが、会社側は「観察記録」「日報」「苦情処理委員会議事録」等で申立人の勤務成績を調べたというがその原証拠を提出するのでなく、都合のいい一部分だけを取り上げているに過ぎない。また申立人のミスをことさら針小棒大に問題にするが、同じようなミスは他の従業員もしていたことについては「知らぬ存ぜぬ」で逃げるばかりである。

 例として個別立証のトップバッター申立人久保に対する会社側柳沢(上司)、藤岡(業務課)両証人の証言について検証してみよう。

 上司の柳沢証人は久保について、@仕事を間違え、手順通り行わず、粗雑であった、A食品衛生や安全衛生の基本ルールを守らない、B注意に素直に従わない、などとD評価の根拠を示した。しかし、@久保の所属していた乳化職場は環境の悪い重労働の職場でミスが起こりやすいこと、A久保のミスというが果たして誰のミスか判然としないものがほとんどであること、B食品衛生や安全衛生の基本ルールを守らないというが久保は誰でもやっていることをやっているに過ぎないこと、C証人は久保関係の「観察記録」や「日報」は調べたが他の同僚のは見てもいないこと、D「観察記録」は本人の知らない間に本人の反論の機会もなく作成されていること、E評定者は「明朋会」に所属していて申立人らを「赤虫」「コケムシ」「赤いゴキブリ」などと罵っている仲間であって公正な評価など期待できないこと、などが反対尋問で明らかになった。

 また業務課の藤岡証人は、久保の勤務ぶりが悪いとい点を立証しようとしたが、@証人が直接久保の勤務ぶりを見た上での証言でなく、柳沢証人の陳述書をなぞるだけに終始し、A久保の勤怠に関する一覧表はすでに会社が総論立証で取り上げているものでなんら改めて立証しなければならない必要性は認められない。なお勤怠で問題になっている「ポカ休」は要するに病気などで当日の朝連絡して年次有給休暇をとることであって、これを理由に人事考課を悪くするのは労働者の有休取得の権利を侵害する労基法違反行為である。

 Y、結論
 以上見てきたように、本件賃金・昇格差別事件は、被申立人明治乳業株式会社が申立人らの正当な組合活動を嫌悪し、その弱体化を図って行った不利益取り扱いであり団結権侵害の支配介入でもある。申立からすでに10年、申立人沢口のようにすでに定年を迎えて会社を退職する人も出ている。

 @申立時から5年さかのぼって同期中位への賃金・職分を是正する、A5年間の賃金差額を年6%の利子を付けて支払う、B慰謝料1人300万円を支払う、C今後差別をしないことの誓約、D謝罪文の掲示、との本件申立救済内容に沿った完全救済命令を1日も早く発せられるよう強く要望して私の意見陳述とします。
      ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 意見書の日付は1996年1月31日、成川美惠子担当事務局員に提出したのもその日だった。労働委員会委員は委員退任後も斡旋員として登録される。委員退任時に和解進行中の不当労働行為事件は、労使当事者の合意を得て斡旋事件に移行する。私は95年11月30日の退任時点で審査事件から移行した6件の斡旋事件を持っていた。その一つが「エールフランス国営航空事件」で、1月31日は18:30から斡旋作業の予定があった。早めに事務局に顔を出して明治乳業事件の意見書を提出したのである。

 明治乳業事件の命令交付は96年9月11日。私が委員を退任した95年11月あたりから9月11日までを私の手帳の記載を中心に関係事項を振り返ってみたい。何か新発見があるかも知れない。

 私が委員退任後担当していた斡旋事件6件のうちのひとつに「小金井市事件」がある。公益委員が明乳と同じ高田さんだった。申立組合は労線統一がらみで分裂した非連合の組合。議会で反共の公明党がからんで複雑な事件だった。高田さんは私と使用者委員の藤森さんの助けを得て96年4月11日、無難に和解を成立させた。

 この時期明乳事件は命令作業が本格化していたはず。私は命令内容の感触を探ろうとして極力話しかけたのだが、高田さんの口からは明乳のメも漏れてこなかった。もう命令の方向性が出てあとは事務局に丸投げしていたのだろう。小金井市事件が和解で終結したので、その後高田さんとの接触はなくなった。

2016年03月18日

18)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】18)国民金融公庫事件は、19人全員の昇給・昇格を認めた全部救済命令。国金が勝ってこれで潮流間4争議の命令は2勝1敗となった。都労委への3つの変質攻撃。





検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)


18)国民金融公庫命令


 そんな中で迎えたのが国民金融公庫命令だった。95年5月19日、期待と不安で緊張した申立人に手交されたのは申立人19人全員の昇給・昇格を認めた全部救済命令。私たちはほっと胸をなでおろしたのだった。

 「申立人らの職位・給与にに関して同期入庫の者と比較したところ、同人らはいずれの場合も実質的にほぼ最下位に位置するなど外形的には格差の存在が顕著と認められ、同人らの勤務状況を正当に評価した結果であるとの被申立人の主張に妥当性を見出すことも困難であった」(都労委配布「命令要旨」から)

 国金が勝ってこれで潮流間4争議の命令は2勝1敗となった。しかし石播事件の結論は解雇無効だが内容的には企業寄りの論理が強く油断はできない。大日本印刷の方向か国金の方向か、これからの運動が決定づける。そんな問題意識で大日本命令の70日後、6月8日に大日本争議支援共闘会議主催の「労働委員会のあり方を問う6・8集会」が開かれた。私が大日本命令の異常さと都労委の現状について報告した。

 過去30年の解雇事件命令で棄却・却下は18件。解雇相当と認められた違法争議行為は「車検証、キイの保管、車輪取り外し」「座席にオイル、タイヤの空気抜き」「上司・警備員への暴力行為」「工場門扉の閉鎖施錠」などの過激な行為で、言論活動を違法と認定したものはこれまでなかった。

 都労委への変質攻撃=@89年の労働戦線再編成を機に中労委はじめ全国労委で労働者委員の連合独占の動き、都労委では事件担当の「平準化」攻撃、A「公平さ」理由に公益委員が申立人擁護の姿勢を放棄、審問廷の管理強化、立証責任を申立人に転嫁、申立人との面会拒否、質の低下、Bベテラン事務局職員の退職 事務局昇進制度の促進、分会の連合加盟 分会活動の締め付け 管理強化を目指す幹部人事。

 都労委変質の危機感が争議団、弁護団、共闘組織全体で共有され、当面潮流間4争議のうち、残る「朝日火災海上保険」事件の勝利命令獲得へ向けて運動を強めることを確認した。朝日火災のうしろには「日立中央研究所」「明治乳業」「日立製作所(東京)」などが続々控えていた。
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