2016年04月01日

23)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】23)「明乳の移行格付試験も不当な制度だった」。連合が誕生した頃から、危機感が私に芽生えていたのだと思う。もしかすると明乳命令へのタテの干渉が何か感じられたのか。



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)


「試験は公平昇格手続き」


 3月18日(月)夕方から私は、都労委事務局の非連合派職員5人と新宿南口の居酒屋で飲み会をすることになっていた。そのため事務局に顔を出した私を見つけてNさんが「戸塚委員ちょっと」と声をかけてきた。委員を辞めて半年になるのだが、事務局に顔を出すと相変わらず「委員」と呼ばれることが多い。Nさんとは事務局のひと隅での立ち話だったと思う。その時の話が手帳に書き留めてある。

 「3/18(N→戸)試験制度は公平な昇格手続きとして民間大手では定着している。JRのようにバッチをしてたら試験を受けさせないといった場合は別として、自らの判断として受けなかった場合はその結果に甘んじなければならぬ。都の主任試験もそうだ。明乳(成川起草)の暗示か――」。

 当時Nさんと成川さんが仕事のコンビ以上に、何か共通の研究をしているらしいことを私は感じていた(結果論だが2年後の98年3月に2人の共著「労委制度ノート」が出版されている)。だから「明乳命令の暗示か」と直感してメモしたのだろう。Nさんからそう言われて私はどんな反応をしたのか。多分「明乳の移行格付試験も不当な制度だった」と反論したのだと思うがはっきりしない。

 このNさんの話は当時頻繁に開かれていた明乳弁護団会議で私からきちんと伝えたのかどうか。それもあいまいである。明乳命令の暗示だとの受け止めがあったのだからもう少し深刻に考えなければならなかったはずだ。今ではそう思うが、当時の私には「行け行けどんどん」の気持ちが強くて命令に後ろ向きの見方はできなかった。私がそうだから弁護団に深刻さが伝わらなかったことは確かだ。

 さらに私の手帳の5月第2週の余白に、次のようなメモが残っている。「労働委員会が行政機関なのに権力から独立した存在でこられたのは、命令を担当審査委員と事務局職員にすべて任せていたからだ。タテの系列の職制機構は機能していなかった。ところが、局長、次長、課長などが命令作業に口を出し、関与するようになれば、権力からの独立の伝統は必定失われていくのではないか」。

 このメモも何か心当たりがあったから書いたのだと思う。総評が解体され連合が誕生した頃から、労働委員会の中にそれまでの不当労働行為救済の職人芸のようなものが官僚的な統制によって損なわれていく、そんな危機感が私に芽生えていたのだと思う。もしかすると明乳命令へのタテの干渉が何か感じられたのか。


2016年03月31日

22)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】22)雪印一般労組結成  大企業の労使協調組合にユニオンショップで加入させられ、職場でたたかったところ、身分を守ってくれるどころか労使一体になって攻撃される。



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)




雪印一般労組結成

 私の退任直前の10月22日(日)、川越地区労働組合協議会の会議室で雪印一般労組の結成大会が催された。94年3月に賃金差別争議の和解が成立して1年半。かねて準備していた労組結成だったが、27人の争議団のうち労組結成に参加したのは田畑団長ら研究所職場の4人だけだった。

 争議団が労働組合を結成した先輩に銀行産業労働組合(銀産労・後の金融ユニオン)がある。静岡銀行や東海銀行の賃金差別争議団が91年2月に旗揚げした。大企業の労使協調組合にユニオンショップで加入させられ、職場でたたかったところ、身分を守ってくれるどころか労使一体になって攻撃される。それでも組合民主化・多数派結集を目指してがんばらなければならないのか。この時期そんな議論があった。

 憲法28条は労働組合結成と活動の自由を謳っている。それなら労働組合選択の自由もあるはずだ。そんな気持ちで田畑さんたちは雪印一般労働組合を立ち上げた。結成大会には銀産労の甲賀書記長、差別連の土井、篠崎さんら、明乳から加賀谷団長、豊島区労協、新宿区労連、それに私も応援に駆け付けた。

 この銀産労や雪印一般労組の結成は、労働委員会内に一定の波紋を投げかけた。労委は組合の団結権を守るのが目的である。それなのに労委で勝利した争議団が企業内多数派の労働組合を脱退して新しい組合をつくるとしたら、それは労委が組合分裂に手を貸したことになるのではないか。新たな労使紛争の火種になる可能性もある。少なくとも労労対決は激化することになる。私にはそんな空気が感じられた。

 労働者委員は退任したが、日常的な忙しさはちっとも減らなかった。当時全労連が乗り出して、中労委労働者委員の選任裁判をやっていた。その対策会議への出席や資料集めにかなり時間を取られた。退任時に和解をしていた事件は斡旋事件に移行して退任後も事実上の和解作業を行った。そんなことで頻繁に都労委事務局に顔を出していたが、96年3月18日、審査室職員のNさんに話しかけられた。Nさんは早稲田大学法学部卒で75年都庁に入り、81年から都労委事務局に勤務している。

2016年03月30日

21)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】21) 1994年、都労委で雪印乳業の賃金差別争議の和解が成立した。20年後の2014年、申立人全面敗訴の不当命令を出される。死んだ加賀谷氏も想像もしなかったに違いない。




検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)


明乳全国事件

 ここで明乳全国事件の申立について触れたい。1994年3月22日、都労委で雪印乳業の賃金差別争議の和解が成立した。担当公益委員は明乳と同じ高田さんで、労使委員は私と兵頭さん。90年6月から約4年を要したが、かなり高水準の解決内容だった。その頃明乳は審問の最終段階だった。

 雪乳和解成立の直後だったと思うが、明乳争議団の加賀谷団長と飲んだ。その座で雪乳の和解が話題になった。雪乳の申立人は23人だったが、和解には支援者の4人を入れたい。会社は申立人以外は対象にしないというので、4人の追加申立を行った。そんな話をした。

 明乳もいずれ和解交渉になるだろうというのが私たちの共通認識だった。今行われている証人調べは年内には終わる。その段階で都労委から和解勧告があるはずだし、それを会社が拒否しても命令が出たら中労委か裁判所でいずれ和解ということになる。その際、労使紛争の火種を残したくない。それは会社も同じだろう。だったら今の時点で和解対象の範囲を明確にしておいた方がいいのではないか。

 全国に仲間がどのくらいいるのかと聞くと市川工場の申立人と同じくらいだという。その人たちは声をかければ申立に応じるはずだ。申立は一括して都労委がいいだろう。――私と加賀谷団長の話はすぐまとまったが、支援共闘会議や弁護団の中には強い疑問の声もあった。結審間際にそんなことをして市川工場事件の進行に支障がないのか、市川工場事件の弁護団で全国をカバーできるのか、などなどである。

 それらの疑問に対して、この申立は和解対象者を明確にすることが目的で、市川工場事件の追加申立でなく新規申立とする、などの合意ができて申立人32人の、かなり速成の申立書がつくられた。それを94年7月6日、都労委窓口に提出し、「平成6年不55号」事件として受理された。

 平成7年度「都労委年表」によれば、申立救済内容は「@同学歴同勤続年数者と同等の職分、号級への格付けA是正後の差額の支払いB損害賠償、慰謝料の支払いC陳謝文の交付、掲示」となっている。担当委員は(公)沖野、(労)井川、(使)深見、(事務局)山本、松本と市川事件とは独立した新規事件扱いになっている。この6年不55号事件が20年後の2014年7月9日、市川事件と同じく申立人全面敗訴の不当命令を出されることになるとは私はもちろん、死んだ加賀谷氏も想像もしなかったに違いない。、

 私は95年10月31日、9期18年務めた都労委労働者委員を退任した。後任には元報知争議団・東京争議団長の井川昌之東京地評常任幹事がなった。新聞労連東京地連の専従委員長、書記長としてコンビを組んだ仲だ。交代に際して心配だった私の担当事件はすべて井川新委員に引きつがせることができた。
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