2016年04月07日

26)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】26)完全敗訴命令に愕然 96年9月11日 思えば明治乳業の不当な却下・棄却命令は、従来都労委が積み上げてきた業績を一気に突き崩す凶悪テロのようなものだった。



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 
完全敗訴命令に愕然

 96年9月11日、都庁第1庁舎南塔34階の審問室には、争議団、弁護団、支援の人々がぎっしり埋まって命令書交付を待った。ちなみに5年後の同じ日、例のアメリカ同時多発テロが勃発する。思えば明乳の不当な却下・棄却命令は、従来都労委が積み上げてきた業績を一気に突き崩す凶悪テロのようなものだった。

 午前10時きっかり、事務局の成川さんと柳沢さんが申立人全員分と会社手交分の命令書を抱えて現れた。成川さんらは命令に不服の場合の手続きについて機械的に述べると、後ろも振り返らずにさつさと退室。命令書を開いてぱらぱらとめくっていた加賀谷争議団長が「なんだこんなもの」とテーブルに文書を叩きつけた。会社側からただ1人命令受け取りに来ていた労務の若いのがそそくさと部屋を出て行った。

 主文
1(1)申立人米元裕の昭和55年度乃至58年度における昇給・昇格差別に係る申立てを却下する。
 (2)申立人米元裕を除く申立人31名の昭和55年度乃至59年度における昇給・昇格差別に係る申   立てを却下する。
2 その余の申立を棄却する。

 上記「主文」については解説が必要となろう。
 労働委員会の命令は統計上、救済(全部救済と一部救済がある)、棄却、却下の3種類に分かれている。実際はそれらが複合されて、一部救済・一部棄却(却下)という命令になることが多い。申立人にとっては救済は勝訴であり、棄却・却下は敗訴と言える。

 明治乳業命令は申立の却下・棄却なので完全敗訴である。ここで棄却と却下はどう違うのか検証してみよう。申立内容に立ち入って救済を否定するのが棄却で、内容の判断をしない門前払いが却下であると言われている。労働委員会へはそれなりに理由があって申し立てるのだからさすがに却下される例は少ない。

 都労委の1970年からの命令を見てみると「申立のしっぱなしで呼び出しにも申立人が応じなかった」「申立人が居所不明である」「解雇から一年以上徒過している」「組合が会社から経費援助を受けており、申立資格がない」「組合員に会社の利益代表する者が混在している」「申し立ててから長年放置しており係争する意思がない」「不当労働行為の疎明せず」などの理由の却下命令が出されている。

 これらの却下事例を見るといわゆる「箸にも棒にもかからない」事件ばかりと言える。こんな事件と明治乳業事件が一緒くたにされたのではたまらない。さらに考えれば、一緒くたにしたところにこの命令に対する都労委側の悪意が感じられる。もう20年前のことではあるが、思い出しただけでは憤りが込み上げてくる。

 命令主文の解析に戻ろう。労働委員会の命令は申立人の「請求する救済内容」に沿って書かれる。以前にも引用したが、昭和60年度「都労委年報」は明乳事件(昭和60年不27号)の請求事項を次の5項目にまとめている。@申立人の55〜59年度の職分・号級の是正、A賃金是正額に年6分を付加して支払う、B損害賠償および慰謝料として1人300万円、C今後は差別しないことの誓約、D陳謝文の手交・掲示。(併合された61年不21号では60年度分の差別是正も請求内容)。

 このうち都労委が不当労働行為の成否を判断したのは@のみである。他の4項目は判断に踏み込むまでもなく棄却とされた。それでは@の判断とはどんなものだったのか。米元申立人の55年度〜58年度分、他の申立人の55年度〜59年度分の請求は除斥期間を理由に却下するという。米元さんとその他の違いは、米元さんは59年度に社内苦情処理委員会に申し立てたが、他は申し立てなかったという事実だけである。

 このように却下されてしまうと、残るのは米元さんの59年度分と、米元さんを含む全員の60年度分の差別についての判断しかない。命令では「これらの年度における申立人らと同職分・同級者との比較において有意の格差は認められない」という趣旨で棄却された。低職分に据え置かれている事情を抜きにして、何年何十年も後に入社した後輩と比較されて「格差は無い」などと斬り捨てられたのでは立つ瀬がない。

 明乳命令は「除斥期間」が絶対的な壁になって救済への道を閉ざしている。除斥期間を突破する理論は「継続する行為論」で、都労委はそれを成立させるためには「差別を繰り返していると認めるに足る具体的徴憑が顕在化していること」が必要条件としている。それが「苦情処理委員会」というわけなのだ。

 「本件のような、組合申立でなく個人申立に係る事件で、会社に個人の苦情をを直接取り扱う苦情処理委員会が存在する場合、前記具体的徴憑が顕在化していると認めるためには、特段の事情がない限り、不利益取り扱いを受けたと主張する者は、まずこうした制度を利用して自らの抗議の意思を会社に対して明確に伝えることが必要と考える」。――労働者のたたかい方にはいろいろんな選択肢がある。どれを選ぶかは当該の労働者が決める。都労委にこのように一つの戦術だけを押し付けられるいわれはない。

 日立中研命令では「救済のための便法」として使われた苦情処理委員会への申立・非申立が、明乳命令では全面的却下の根拠として採用されている。それ自体団結権救済機関としての労働委員会制度を逸脱するものであるが、問題はそれだけではない。これだけきっぱりと却下命令が出せたウラには高田公益委員の審査指揮(事務局や末廣使用者委員に後押しされた)があったのだ。

 ここで95年3月2日に行われた調査期日を思い出していただきたい。前年の12月22日、会社側東野和夫証人の反対尋問でこの事件のすべての証人調べが終った。それを受けての調査期日だったが、高田公益委員は突如「本件命令の範囲を60年不27号、61年不20号、61年不21号の3件とする」と宣言した。労働者委員の私も、申立人側代理人、争議団も猛反発したが審査指揮ということで押し切られた。

 明乳事件は上記3件に、62年不17号、63年不22号、平成元年不20号、2年不8号、3年不9号、4年不6号を加えて計9件が併合されていた。それを3件だけにし、他は分離するというのである。3件といっても61年不20号は1人の追加申立事件なので実質2件、審査対象は1〜2年分にしかならない。ちなみに直近の潮流間差別事件では、朝日火災が6件、日立中研が7件併合だった。

 併合する、しない、が命令にどう影響するのか。96年4月5日に交付された朝日火災命令を例に検証してみよう。朝日火災命令の対象事件は1983年(昭和58年)申立から91年(平成3年)までの8年分である。命令は、83年以前は(明乳と同じように)除斥期間徒過を理由に却下したが、83年以後の8年間については「査定の中間評価であるCとして再査定し、既支給分との差額を支払うこと」と命じた。

 明乳事件でももし平成4年不6号まで併合のままだったなら、85年から92年まで7年間の格差の存在が問題になっていたはずだ。格差の顕現を実証するには1〜2年の観察ではどだい無理だ。そんなことは労働委員会の常識のはず。それを無視して強引に分離し、審査対象を1〜2年に限定する。その結果「有意の格差はない」とあっさり否定する。「あっさり否定する」ために分離したとしか思えない。




2016年04月06日

25)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】25)都労委のスタンス 「50年誌」記述を見ると、潮流間差別事件をいかに救済するか、という積極姿勢で貫かれている。しかし逆流の陰謀がひそかに進行していたのである。



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)


 
都労委のスタンス

 そもそも都労委は潮流間差別事件についてどんなスタンスだったのか。前にも引用した「創設50年記念誌」に「潮流間差別・組合間差別事件の増加」という一項を立てて都労委としての認識をのべている。

 「(40年代以降の組合間差別について概観した後で)また、50年代に入ると、組合内の少数派グループが組合に留まったまま執行部の運動方針を批判する活動を行い、そのために使用者に差別されたとして争われる、いわゆる潮流間差別をめぐる申立も目立つようになった。

 この結果、この10年間では、潮流間差別・組合間差別に関する命令が増加することとなった。

 潮流間差別事件では、少数派グループが一定の集団として特定され、使用者がそれを認識しているか否かという点と、少数派グループが行っている活動が『労働組合の・・・・行為』と認められるか否かとい点が固有の争点となっている。

 潮流間差別・組合間差別事件のうち、昇給・昇格に係る事件では、法的にも実務的にも未解決の難問が多い。この10年間でも、除斥期間との関連で、こうした昇給・昇格の決定行為がいわゆる『継続する行為』に該当するか否かという点や格差是正の方法、程度が引き続き大きな争点となっているほか、申立時に非組合員(昇任により組合の組織対象範囲から外れたもの)となった元組合活動家が問題となった事例もある」

 この「50年誌」の記述はいつ頃書かれたものであろうか。発行は1996年(平成8年)11月29日だが、前記記念座談会の実施期日が95年11月30日であることから推測して、95年の暮れか翌年春頃ではなかったか。96年9月11日の明乳事件命令交付以前であったことは間違いなく、もしかすると命令が公益委員会議の合議にかけられた6月18日あたりだったのかも知れない。

 いずれにしても「50年誌」当該個所の執筆者の念頭には明乳事件命令はない。記述を見ると、潮流間差別事件をいかに救済するか、という積極姿勢で貫かれている。この流れが都労委の潮流間差別事件の本流だった。しかし執筆者の気付かぬところで、逆流の陰謀がひそかに進行していたのである。
 
 日立中研事件命令交付の1カ月後、6月18日の公益委員会議に明乳事件命令原案がかけられた。私は翌日19日午後6時からエールフランスの和解協議があって都労委へ顔を出した。事務局に室橋審査課長がいたので明乳事件の合議状況についていくつか質問した。課長は快く質問に応じた。

 戸「命令全文がかかったのか」室「全文だ」戸「大日本印刷や日立中研のようなことはないか」室「ない。合議は次回も続行する」。私の手帳にはそれだけしか書いてない。ここで言う「大日本印刷」とは95年3月30日に交付された棄却命令のこと。この命令の合議は、最初全文でなく部分的な判断を公益委員会に求め、それを前提にして書いた全文を改めて合議にかけたという経緯がある。

 日立中研命令では4回目と5回目の合議の間に2ヵ月の中断があった。その間に命令原案の書き直しが行われたのではないか、と推測される。私は明乳事件でも大日本や日立中研と同じようなことがあるか、と質問したのだが室橋課長はきっぱり「ない」と答えている。私はこの課長の受け答えを聞いて、明乳命令合議はあまり揉めないようだという感触を得た。その旨7月1日の支援共闘会議で報告した。

 明乳事件命令の第2会合議は7月2日に行われ、ここで命令は決定した。この種事件の命令合議としては異例の速さである。直近の潮流間事件の合議回数に比べて少ないのである。「石川島播磨(出向・解雇)」は3回、「大日本印刷(ビラ配布解雇)は5回、「朝日火災(差別)」は6回、日立中研(差別)」は6回を費やしている。合議回数が少ないのは命令内容に議論の余地がないということになる。それが吉と出るか凶と出るか。私にはまだ「日立中研の命令姿勢は崩れないだろう」との楽観視があった。

 公益委員会での命令決定を受けて支援共闘会議は都労委に対する公正命令要請行動を強めた。7月16日明乳支援共闘、8月1日都労委対策会議、8月3日支援共闘主催総決起集会、8月29日支援共闘会議。そして都労委事務局から「9月11日午前10時に命令を交付します」との連絡が入った。

2016年04月04日

24)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】24)96年4月5日、石川島播磨、国民金融公庫、大日本印刷とともに「都労委潮流間4事件」としてたたかってきた朝日火災海上事件の命令が出た。争議団完全勝訴だった。



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

朝日火災・日立中研命令

 96年4月5日、石川島播磨、国民金融公庫、大日本印刷とともに「都労委潮流間4事件」としてたたかってきた朝日火災海上事件の命令が出た。朝日火災の申立救済内容は@支配介入言動、A配転、B賃金・賞与・昇格差別の三項目。昭和58年不103号から平成3年72号までの6件併合事件だった。

 命令は種別としては一部救済に入るが、実質は全部救済の争議団完全勝訴だった。@に関しては「(会社は組合の)定期大会にむけて行う各分会からの出席代議員の選出等の組合活動に関し、支配介入してはならない」と断定し、社内に謝罪文を掲示するように求めた。Aの配転の不当性も認めた。

 Bのうち賃金・賞与の是正、差額請求については、58年から平成3年分まで「査定の中間評価であるCとして再査定し、既支給分との差額を支払うこと」と命じた。なお58年不103号の申立は56年にさかのぼった差額を請求していたが、58年以前は除斥期間を理由に却下となっている。

 さらに画期的だったのは昇格差別の是正命令で、「各人の職能等級格付けを、平成3年6月以降、申立人ら各人の同年同期入社者に遅れないよう取り扱うこと」との主文。これは90年5月14日付の石川島播磨賃金昇格事件命令で確立された「一括是正方式」を踏襲したものだった。朝日火災争議団はこの命令を武器に中労委で粘り強い和解交渉を行い、10年後の2006年に全面勝利和解を勝ち取っている。

 朝日火災の命令で当初の潮流間4事件共闘は一定の終結をみた。解雇事件の大日本印刷が完敗、同じく出向・解雇事件の石川島播磨が解雇は救済されたものの出向は棄却。賃金昇格差別事件の方は国民金融公庫も朝日火災海上もほぼ全面勝利の命令だった。潮流間共闘は日立中研、明治乳業にたたかいの軸足を移した。

 日立中研も昭和61年不104号から平成5年不29号までの7件併合で、94年9月26日に結審し、同年12月20日に最終陳述書を提出、私の意見書は95年7月7日付で提出されていた。公益委員会の命令合議が95月10月17日に始まり、11月7日、11月21日、12月5日と続けられここで中断、年が変わって96年2月6日に再開、2月27日に決定した。

 合議にこれだけ費やしたのは最近の事件では珍しいことだった。しかも決定したはずの命令がなかなか交付されない。やっと申立人らが命令書を手にしたのは3カ月後の5月17日だった。
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