2016年04月12日

29)検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)。29)一方の組合活動を敵視 労使協調と反共を旗印にした連合路線が正当な組合活動なのだと言わんばかり。それが命令の中に貫かれている。



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

一方の組合活動を敵視

 明乳命令は徹頭徹尾申立人らの労働運動に批判的である。故意にゆがめたり矮小化する見方が目に余る。申立人らの活動に敵意を持っているといっても過言ではない。会社施策にことごとく反抗し、共産党や民青の影響下にある申立人らの組合活動は労働委員会としても認められないという立場。労使協調と反共を旗印にした連合路線が正当な組合活動なのだと言わんばかり。それが命令の中に貫かれている。

 申立人らは1960年(昭和35年)から67年(昭和42年)まで、明乳労組市川支部の執行部として活動していた。それが職制らによってつくられたインフォーマル組織明朋会によって執行部から排除されていく。明朋会を牛耳っていたのは会社だ、との申立人らの主張に対して命令は次のように言う。

 「申立人らの中の一部の者は、39年度から42年度までの間、市川支部役員として活動したことがある。そして、40年ごろから、市川工場の中で明朋会と称する班長職を中心とした集まりがもたれ、同会のビラの『・・支部役員は本部役員を敵とののしってはばからず・・』との表現からするれば、当時の申立人の一部が役員となっていた市川支部執行部が組合本部の方針と必ずしも一致しない活動を行っていたことが推認される」

 「そして、41年8月に行われた支部定期大会において、申立人らの一部がかなり影響力を有していたとみられる執行部が提出した運動方針案の主要部分が否決され、組合本部に同調する組合員らの提出した修正案が可決されたこと、さらに、翌42年7月に行われた市川支部役員選挙において、申立人らはすべて落選し、以後、申立人らの中で同選挙に当選した者はいない」

 「新職分制度導入に際して会社と組合本部が労使協議に入ろうとしている41年頃、市川支部においては、組合の主導権が申立人らの一部の者から組合本部と同一歩調をとる者らに移行しつつあったことが認められる」 

 まるで、組合本部と一致しない活動をしていた申立人らは執行部から排除されて当然だという論調ではないか。しかもその根拠となっているのは明朋会のビラなのだ。一体高田公益委員と担当事務局は証拠に出された明朋会ビラを全部ちゃんと読んでいるのか。都合のいいとこだけ引用するのは許せない。

 明朋会ビラは申立人らを「(忍者)赤ガエル」「赤ムシ」「赤い細菌」「赤いだし汁」「赤いタニシ」などと罵倒し、「生産阻害を唯一の生き甲斐としているインチキ革命家共」「生産阻害者」「企業破壊者」と決めつけて、「労働者意欲欠如者(申立人ら)の排除」を主張しているのである。

 一つひとつは根拠も何もない悪罵に過ぎないが、これを会社の庇護の下に連日門前で配布されると一般従業員の心境に変化が起こるのはやむを得ない。申立人らを「怖い存在」として避けようとする。それが執行部選出の選挙に反映されたと見る見方が妥当だろう。

 「ウソも百遍言うとホントになる」という言葉がある。ヒットラーが大衆扇動したあの手口だ。明乳の一般従業員ばかりでなく都労委までもが会社の機関銃のようなデマ宣伝になびいてしまったのではないか、と私は思う。ここで思い当たるのは95年4月6日の調査期日の高田公益委員発言である。

 以前にも書いたがこの日、会社側をどうしたら和解の話し合いに乗せることができるかということで三者委員と事務局の下相談が持たれた。その席上、高田さんの口から「高田、末廣(当然事務局も一緒)で明乳中山社長に会った」という話が出た。和解に応じるよう説得に行ったという趣旨だ。

 中山社長について高田さんは「おとなしそうな人だった」と印象を述べた。その上で労働者委員の私に「運動の面で目に見える変化ができないか」と問いかけている。つまり高田さんの頭の中には「おとなしい社長」と「過激な運動の争議団」という構図が描かれていた。それが和解の障壁だというわけ。

 私に内緒で公使委員と事務局で社長に会い、申立人らの組合活動が当時も今もいかに過激なものであるかということをさんざん吹き込まれてきた結果に違いない。私はその場で反論したが残念ながら、その刷りこまれた申立人らの組合活動への偏見がそのまま命令の「事実認定」になってしまった。いや「なってしまった」というのは正しくない。都労委の悪意によって「してしまった」のである。

 新職分制度導入についての会社と明乳労組本部の協議のスタートになった1966年(昭和41年)4月20日の「労使確認」。これが@合理化推進、A新職分制度導入、B生産阻害者の排除、の3本柱から成り立っていることは既に指摘した。命令は3本のうち1本だけ取り上げてあとの2本には目を瞑った。


2016年04月11日

28)検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)。28)会社側と御用組合が3点セットの「確認書」合意。@合理化推進、A新職分制度導入、B「生産疎外者」は解雇できる。命令は、新職分制度導入合意以外は抹殺した。



検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)


「生産疎外者は解雇も」

 団交の2日前、明乳労組石川委員長は「春闘妥結に際して組合員各位へ」という声明を発した。「会社との交渉中生産阻害者が終始問題になり、なおあげ得たであろう結果が割り引かれた点であります」と春闘が不十分に終わった元凶は申立人ら生産阻害者にあると罪をかぶせてきた。

 声明はさらに次のように続く。「会社のいう生産阻害者とは、共産党員、民青加入者で、欠勤が年30日を越えたり(某支部全体の7%強)、故意に不良製品を作ったり、職制に文句をいって自分はブラブラして作業もしなかったり、平常において円満な労使関係を樹立することを妨げたりする者をいいます。このような我々の労働運動と方向を異にし、我々の足を引っ張る者は組織から外れ自らの目的にあう組織の中で活動すべきだと信じます」。ここまで会社と一体になり、労使協調に徹した労働組合はそうざらにはない。

 このような姿勢の明乳労組中央と、申立人らの排除をけしかける会社側が団交を持ったらどんな結論になるか、最初から分かるではないか。

 この団交で合意された「確認書」は3本の柱からなっている。第1は人減らし「合理化」のさらなる推進、第2は新職分制度導入について、第3は「生産阻害者への対処」である。、

 第3の「生産阻害者への対処」は概略次のような内容である。
 「勤務劣悪な者、製品の故意の不良化、設備の損壊等を行う生産阻害者、職場秩序の破壊を唱導しあるいはみずから実行する者が出ないように組合は努力する。会社はかかる行為をなしたものについて社業への貢献が期待できないので、これを解雇することができる」。

 これが「確認書」の柱なのだ。命令はこのうち新職分制度の導入合意のみを取り上げているが、新職分制度と人減らし「合理化」、「生産阻害者」の排除はセットになっているのである。それなのに命令は新職分制度の合意部分だけ取り出すことによって背景事情を全て抹殺してしまったのである。

 新職分制度導入を目指す明乳労組本部と会社の協議は事もなく進行し1968年(昭和43年)8月15日に妥結する。都労委命令はこれを「相当の手続きを経たうえで新職分制度の導入を決定した」と好意的に評価。新職分制度の正当性の根拠としている。会社側江間証人の言い分がそっくり認容されたのだ。

 では新職分制度と移行格付試験に反対し、会社と明乳労組本部双方から「生産阻害者」と烙印を捺されていた申立人らの活動は命令の中でどう捉えられているのか。

 「こうした会社の受験呼びかけに対して、市川工場においては申立人らを含む者らによって移行格付試験受験拒否の活動が行われた。すなわち、申立人古小高、斉藤、および久保ら3名の名義による試験反対を内容とするビラを配布したり、また申立人小関および伊藤らは、組合の市川支部事務所に赴き、市川支部役員らに対し『受験を強いている。本人は大きな精神的負担である。組合で処理してもらいたい』等と抗議したことが認められる」。――なんとも、申立人らの活動を矮小化した事実認定ではないか。

 3人でビラを配ったとか、明乳労組市川支部に申し入れに行った程度の活動で、市川工場従業員の約半数が受験拒否(不受験)を決断するわけがない。申立人らの「新職分制度は差別を助長し、全体として低賃金に抑え込む資本の攻撃だ」と本質をついた主張に賛同・共鳴した労働者が職場の半数もいたということなのだ。そこの所に触れずに新職分制度を賛美するための意図的な事実認定としか言いようがない。

 不当労働行為制度はいうまでもなく使用者による団結権侵害行為から労働者を救済するところに本質がある。労働運動路線の評価をするところではない。明乳事件の場合は団結権を侵害されたといって申し立てているのは明乳労組本部でなく申立人らなのだ。新職分制度に賛成し推進するのも労働運動の路線だと言えなくもないが、制度に反対し、制度導入の前提措置である移行格付試験に反対するのも立派な労働運動ではないか。労働委員会は労働運動の路線の違いに対してえこ贔屓をしてはいけない。路線の対立については中立を保たなければならない。

2016年04月08日

27)【検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)】27)仕組まれた「事実認定」。除斥期間を理由に過去の累積格差を否定し、分離命令で差別の判断から逃避した。「判断に必要な証人を採用」し「判断に必要な事実認定」をした。




検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)


仕組まれた「事実認定」

 賃金昇格差別事件に個別立証論議はつきものである。労働者側は集団的差別事件だから大量観察で十分だと主張するが、会社側は格差の合理性を分かってもらうには個別の勤務成績、評価の正当性の立証(いわゆるアラ探し立証)が不可欠だという。明乳事件でも個別立証が行われた。会社が個別立証をやるというのは格差の存在を認めるからだ。格差がなければ「格差の合理性」を論じる必要はない。

 明乳の個別立証は、93年3月から94年8月にかけて、会社側証人延べ16人、申立人側反論証人2人、14回の審問期日を費やして行われた。この会社側個別立証は他に類を見ない特異なものであった。

 明乳事件の個別立証については戸塚意見書で指摘したように、@ほとんどが本社人事部、市川工場業務部の若手部員による伝聞証言である、A数少ない上司証人はすべて申立人らを敵視する明朋会に所属している、B相対評価を抜きにして申立人らのミスだけをあげつらっている、C証言の根拠としているのは作成時期も作成者も不明な「観察記録」や「日報」である、など同種差別事件に比べると明らかに欠陥証言である。

 これを使ってでは命令を書けないことぐらいは労働委員会の玄人筋なら誰でも分かる。もし命令の中でこの個別立証に触れるとしたら、会社側の主張する「人事考課の合理性」を否定するしかない。そこで考え出されたのが@除斥期間とA分離命令である。除斥期間を理由に過去の累積格差を否定し、分離命令で1987年から92年までの差別の判断から逃避したのである。

 そのことによって命令は「有意の格差はない」と判断した。格差がなければ「人事考課の合理性=個別立証」に触れる必要はない。命令書をもう一度見てもらえば分かるが、申立人らの人事考課一覧表はあるが個人の勤務成績には1行も触れていない。1年半の貴重な時間を割いたのに完全に無視したのだ。

 会社側でさえ申立人の一部ではあるが「格差の存在」を認め、「格差の合理性」を証明するために個別立証をしたのに都労委はそのことにまったく触れずに労働者敗訴の不当命令を出したのである。ずさんな個別立証という会社側の不利を都労委がカバーしてやったとしか言いようがない。

 命令書の構成も異常である。手元の都労委平成8年「不当労働行為命令集」によれば命令書は別表を含めて65ページ。このうち「判断」部分が20ページ、45ページが「事実認定」である。問題はとんな「事実」を認定しているかということである。命令書の項目に従って認定事実を拾ってみた。

 「昭和44年度の新職分・賃金制度導入をめぐる経過」「旧職分制度から新職分制度への移行」「市川工場における移行格付試験前後の状況」と新職分制度への移行の記述に6ページ、「会社の職分制度・賃金制度」の説明に13ページ、「会社の人事考課制度」の説明に8ページ、計27ページが会社の職分制度・賃金制度に関する説明で費やされている。その中には「新職分制度導入に至るまでの労使協議の経過」が事細かく記述されている。新職分制導入推進の労働組合本部との「労使協議の経過」である。

 命令は、新職分制度の中身、労使協議の経過、移行格付試験の必要性と実施状況、人事考課制度の骨組みなどについて2人の会社側証人(江間俊夫、東野和夫)の証言をそのまま採用して「事実認定」している。2人とも証人採用について申立人側は「必要ない」として反対した経過がある。

 91年暮れから92年春にかけての個別立証の調査の段階で、新堂公益委員が「本件は新職分制度とそれに基づく移行格付試験が不当労働行為意思のもとに実施されたのか否かが争点だ。改めて労使双方から証人を立てて立証してほしい」と言い出し、申立人側は「これまでの立証で尽くされている」と反対したが審査指揮で、争議団側小関守、会社側江間俊夫が証人に立つことになった。

 江間証人は中大法学部を出て入社、すぐ労組専従になった。新職分制度導入時は明乳労組本部の専従書記次長、書記長の役にあった。組合の民主的手続きを経ることなく会社の指示で組合専従になり、組合幹部になった男だ。会社が新職分制を提案し、組合が内部討議で導入を受け入れることを決め、粘り強い労使協議をした旨の証言をした。ベテランの経営法曹山田弁護士の誘導で辻褄の合った証言がなされた。

 新堂公益委員は93年10月31日で退任し、以前明乳事件を担当していた高田委員が後を継いだ。94年6月2日、個別立証の組合側最後の証人桜井隆夫さんの主尋問が終わった労使同席の審問廷で、高田公益委員が「会社から申請のあった東野和夫証人を採用する」と突然宣言した。

 申立人側守川弁護士が立って「反対である。桜井証人で結審のはずだ。東野証人の証言趣旨が明確でない。証人採用を再考してほしい」と粘った。高田公益委員は「判断に必要な証人と考える」として自説を曲げなかった。この発言は私のノートに明記されているので間違いない。

 当時は気付かなかったがこの「判断に必要な証人」という発言は極めて重要な意味を持っていたことになる。96年9月11日に交付された明乳事件命令では東野証言がそのまま採用されており、まさに「判断に必要な証人」だったからである。まだ証言も聞かないうちに、どうして判断に必要と分かるのか。

 命令を書く側の都労委が、命令の論拠が薄いと思われる「新職分制度の合理性と必要性」について分厚く立証させたものとしか思えない。東野証人はこのように証言した。「前任地の帯広工場から市川に転勤して仕事への熱意ということであまりの違いにショックを受けた。満足感、充実感のない従業員の存在だ。従業員に希望を持たせられるような資格制度、賃金制度が必要だった。それが新職分制だ」。

 このように「判断に必要な証人を採用」し「判断に必要な事実認定」をした結果、とんな「判断」になったか。

 「44年度職分制度改正の趣旨は、従業員の増加、従業員構成の変化、同一職分内における能力分化等の要因により、旧職分制度の5職分で管理することが困難にになったためであった。また、職分制度改正の方針は、『能力に応じた配置、昇格、昇給』を行うこと、『公正な人事管理』を実現すること、『職分昇格は・・・人事考課成績および昇格試験により行うこと』、『職分と職位の対応関係を明確』にすること、『職分制度は職務に密着しない』こと等々とされていた」。

 「会社における職分・賃金制度は職能中心の制度であるが、このこと自体、学歴・年功よりも職能・職務に重きをおいた人事諸制度が次第に大勢を占めるようになってきた今日の社会情勢と何ら矛盾するものではなく、新職分制度において職分が細分化・多層化した事実はみられるものの、これも、職能と処遇の対応関係をよりきめ細かく行う趣旨で実施されたのであって、特に被申立人会社に特徴的な制度とはいえない」。

 なんと会社の主張をそのままなぞっただけの判断ではないか。これほどまでに企業の職務職能給を礼讃・美化した労働委員会命令にお目にかかったことはない。しかもこの判断には論理のすり替えがある。命令のいう「今日の」とはいつのことか。命令文脈からすれば命令作成の1996年であって新職分制度導入時の69年てはない。27年の歳月の経過を無視して賃金制度を論じるのはあまりにも乱暴だ。

 69年当時はまだ「学歴・年功」より「職能・職務」に重きを置くような社会情勢にはなっていなかった。明乳の新職分制度は命令時点の96年では「社会情勢」かも知れないが、69年当時としては職能・職務を絶対化した社会的にも例を見ない過酷なものだった。しかも移行格付け試験という「踏み絵」を踏まなければならない。そんなことは労働委員会のこの種事件を振り返ればすぐに分かることだ。

 さらに命令は新職分制度導入に至る労使協議に触れる。「(昭和)41年4月20日の労使確認に始まり、43年8月15日の経営協議会において『新職分制度に関する合同委員会』の答申どおりの内容で承認されるまで、組合と会社は相当の手続きを経たうえで新職分制度の導入を決定していたものと認められる」。

 命令は1966年(昭和41年)4月20日の「労使確認」が、新職分制度へ向けての労使協議のスタートだと位置づけ、その後の粘り強い交渉を経て新制度は会社の強制などでなく労使双方納得したものになったと認定する。確かにこの日団交が持たれ9項目にわたる「確認書」を締結した。しかしこの団交は労使対等とは言い難い性格のものだった。なぜなら明乳労組は完全に会社に取り込まれていたからである。
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