2016年04月19日

31)検証・都労委「明治乳業(市川工場)事件」(戸塚章介)。31)ちらつく明乳労組の影 不公正かつたたかう労働者への悪意に満ちた命令書。日本の労使関係を「対決」から「強調」へ変質させようとする権力の意図が透かし見える




検証・都労委「明治乳業事件」 戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)



ちらつく明乳労組の影

 これほど酷い、不公正かつたたかう労働者への悪意に満ちた命令書。そのルーツはどこにあるのか。私の脳裏には明治乳業労組の影がちらつく。これから先は私の推論・推測の域に属するのかも知れない。しかし状況証拠を積み重ねていくとかなりの正確度で「明乳労組の介入」の実態が浮かび上がってくる。

 ここで思い出していただきたいのは92年10月6日に行われた調査期日である。新堂公益委員が会社側に熱心な口調で和解に乗るよう説得した。これに対して調査の場に出ていた労務課職員は「いま職場の人はこの審問に注目している。自分たちの処遇以上に何故申立人らが優遇されねばならないのか。逆に不公平ではないか。この事件は申立人と会社の争いでなく、一般の従業員との争いなのだ」と発言した。

 「職場の人」とか「一般の従業員」とか言ってるが抽象的で分かりにくい。これを「明乳労組」と置き換えてみたらどうだろう。労務課職員の話がよく理解できるではないか。明乳労組は「審問に注目」し「何故申立人らが優遇されなければならないか」と不満を持つ。和解をぶち壊した張本人なのだ。和解をぶち壊すだけではない。申立人らの主張を認めた救済命令は何がなんでも阻止しなくてはならない。

 89年の連合発足まで、食品産業の労働組合は食品労連と食品同盟に分かれていた。ナショナルセンターは、前者が中立労連で後者が同盟である。雪印、森永、明治などの乳業関係は食品労連で、60年から70年代までは総評とともに春闘共闘を組んでいた。しかしその中で明乳労組は、60年代の早くから労使協調路線を歩み食品労連の最右翼と言われた。

 「生産阻害者・企業破壊者の排除」を謳った明乳の労使合意は1966年だが、その後も申立人らを敵視した労使癒着は進行した。連合発足後、食品労連と食品同盟は組織統一して食品同盟となる。連合民間の大産別の一つである。ちょうどその頃、都職労都労委分会も連合・自治労の傘下に入る。

 91年11月に都労委第30期が発足し、労働者委員幹事に全逓出身の成嶋久雄委員が送り込まれた。成嶋幹事は「担当事件の平準化」を強行し、私から「潮流間事件」を取り上げようとした。反連合、非連合の労働者委員を認めず連合独占を謀った。ある時私は連合派職員から「社民を見くびってはいけませんよ」と言われたことがある。成嶋氏が都労委分会と密接な関係を持っていることがうかがわれた。

 反共と労使協調の連合型労働運動路線を労働委員会に持ち込もうとした成嶋都労委労働者委員幹事と「和解も嫌だ」「救済命令も阻止したい」と画策する明乳労組がどこかでドッキングしたことが容易に想像される。明乳労組の願望が成嶋幹事を通じて事務局の幹部や分会に反映したことは否定できない。

 だからといって彼らの意図がそのまま明乳命令になったとは私も短絡的に決めつけるつもりはない。公害事件の複合汚染のようにいろんな要素がからんでいたのだと思う。却下・棄却命令を見越した会社側証人の採用、強引な審査指揮、偏った事実認定、それらは特定多数の共同作業だった。

 労働組合の右翼的再編、総評解体、労働者委員の連合独占といった背景事情のもとに、高田公益委員、末廣使用者委員、成川事務局員、経営法曹の重鎮を揃えた会社側弁護団、中山社長、黒川・沢井・大島・石田・江間・東野らの会社側証人、そして明乳労組が「却下・棄却命令」に的を絞って集中した。日本の労使関係を「対決」から「強調」へ変質させようとする権力の意図が透かし見えるではないか。



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